自己紹介


 横須賀市の引揚者の寮で生まれ育ち、フィリピンを主な調査地として文化人類学の研究を続けています。
 
横須賀にもフィリピンにも、アメリカの影の下での栄光(虎の威を借る狐?)と卑屈(進駐/植民という暴力!)という独特の雰囲気が漂っています。どちらも日本でのイメージが良くないようですが、私は大好きです。山口百恵の、あの、クールな(を通りこして、しらけた?)熱さは、戦後の日本はみんな嘘だ!という、虚無と開き直りの横須賀の気分そのものです。
もっとも、小学校から高校までは、関東学院という横浜の私立学校に通いました。幼稚園から大学までの一貫教育と、キリスト教精神にもとづく徳育を特色とする、とても居心地の良い学校です。最近では大学ラグビーが強くて有名になりました。同級生には、幼稚園から大学までエスカレーターで進学した者が何人もいます。私も中学・高校の受験がなくて、楽だったし得した気分です。
 ただ住んでいる引揚者の寮の、貧しさと荒々しさが支配する世界と、学校のほんわかの
んびりした世界とが、あまりに違っていました。だから、毎日そのあいだを往復していると、どちらもリアルな現実で本物の世界だという実感と、しかし、どちらも嘘っぽい仮の姿だという実感がありました。しかも、自宅と学校という、異なる生活環境に応じて、異なる人格が引き出されてくるので、はて、さて、本当の自分はどこにいるのだろう、などと悩んでました。
 そんな奇妙な現実感覚と、今ある自分はたまたま周囲の環境に決められ作られた不自由な自分だ、などという奇妙な自我だか自己意識があって、だからとりあえず、此処を離れた別の場所では別の自分が引き出される、などと信じていました。そうした感覚が、異文化に対するあこがれや、文化人類学に対する興味につながったようです。
 大学では、第二外国語として中国語を選び、4年間、割と真面目に勉強しました。日中学院にも通いました。文化大革命に興味をもっていたからです。当時、中国語を勉強するなどという変わり者は少数で、一学年2,500人ほどのなかでたった40~50人程度でした。クラスには、ネクラな者と学生運動に係わる者が多かったなぁ---。
 卒論と修論は、文献資料が多いという理由で、台湾の宗教について書きました。博士課程に進んで、いざフィールド・ワークの準備を始めたら、どうしても行きたい中国本土は、いまだ文革の混乱が続いていて、調査どころか留学さえ難しく、次善の策の台湾とは国交が断絶されて奨学金がなく、どうしたものかと困り果てました。
 それで、急遽、フィリピンは台湾の隣だからと撤退=転進を試みた次第です。台湾高砂族と北部ルソン山岳諸民族は、マレー・ポリネシア系の同一言語・民族グループだから、比較研究をするという名目で奨学金を取得し、留学と調査の3年間に出発しました。いずれ中国研究に戻るまでの緊急避難のつもりでした。しかし、初めの期待値が低かっただけに、行ってみると案外と面白く、結局そのまま現在にいたるまで、ズルズル・ダラダラとフィリピン各地での調査を繰り返しています。
 福岡に赴任してからも、あっという間に15年近くを過ごしてしまいました。何の縁もなくてやって来ましたが、今では福岡の街が好きです。大きくも小さくもなく、100万人という理想的な規模です。映画、音楽、美術、その他の「文化的」な生活が気軽に楽しめます。新鮮なお刺身と野菜が簡単に手に入ります。ちょっと街を出れば、すぐ海と山の自然を満喫できます。まっとうな暮らしをしている幸せを感じています。ダイエーやアビスパが勝つと、じわーとうれしいです。
 それに、六本松キャンパスの、自由でリベラル、そして少しアナーキーな雰囲気が気に入っています。文化人類学をしっかり学びたいという人には、福岡の街と九大比文が絶対におすすめです。
 私の好きなことは、映画を観ること、ライブを聴くこと、背振や七山の渓流で山女魚釣りをすること、そして一番はフィリピンの珊瑚礁でシュノーケリングをすることです。
 現在の研究テーマは、1)北部ルソン・イフガオ族の文化復興・環境保全の運動と国際NGOの支援ネットワーク、2)マレーシア・サバ州の多文化・多言語・多民族状況におけるフィリピン人移民・労働者の適応戦略、3)マニラにおける大衆文化と政治意識・運動、です。