歴史をふまえて未来を開く国際協力

北部ルソン先住民イフガオの村と丹波の小さなNGOをつなぐ草の根の交流



1. はじめに:何が興味深いのかというと・・・
 みなさん、こんにちは。九州大学の清水です。これからお話するのは、フィリピン・ルソン島の北部山地の先住民イフガオのハパオ村で、この7~8年にわたって進められている住民主導の植林運動・「イフガオ・グローバル森林都市運動(IGFCM)」と、それを支援している兵庫県丹波笹山の小さなNGO「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)についてです。どちらも田舎の、世界の片隅にあるちっぽけな組織なのですが、その理念や活動そして連携協力の仕方がユニークでとても興味深いです。
 その植林運動は、ハパオ村の住民にとっては、ユネスコの世界遺産にも指定されている棚田を守り、同時に重要な現金収入となっている木彫りの原材料を確保し、それによってイフガオとして民族の誇りをもって豊かな暮らしを作っていこうとする企てとなっています。いっぽう、丹波笹山の小さなNGOは、海を越えて直接にフィリピンの山奥の村おこしを支援することをとおして、草の根レベルの国際交流の推進による町おこしの試みとなっています。フィリピンと日本の、それぞれの田舎、あるいは辺境の村が直接に結びついて交流し、それが双方の地域の活性化に役立っているというのは、すごいことですね。
 現在では、グローバリゼーションということが言われています。そのイメージは、ニューヨークや東京やマニラなどの巨大都市をネットワークのハブとして、ヒトやカネやモノが大量かつ迅速に世界の隅々まで動き回るというものです。地方や田舎は、そうした中心から押し寄せる荒波に飲み込まれ翻弄され、生活の成り立ちを根底から変えられたり崩されたりしてゆく、というような漠然とした理解がなされています。けれども、今日お話しする事例では、ハブを経由しないで、海を越えて田舎どうしが直接に結びつき、それが村おこし、町おこしにつながる大きな可能性を秘めているのです。あえて挑発的に言えば、住民自身(もちろん全員
ではなく限られたグループですが)のイニシアチブによって「辺境からグローバル化」してゆく企ての紹介ということになります。
写真 1 ハパオ村の景観
 ところで、今日という日にシンポジウムが開かれてお招きいただいたことに、私自身は何かの縁というものを感じています。今日12月8日は何の日かというと、今朝のNHKのニュース番組でも取り上げて紹介していましたけれども、ビートルズのジョン・レノンが暗殺された日であり、ちょうど25周年の記念の節目になります。私は、中学・高校のころ、ビートルズが好きでした。なかでもジョン・レノンが大好きで、ビートルズが解散してから後の歌なんかが特に好きです。ジョン・レノンは「イマジン」という曲がいちばん有名でしょうね。私も好きです。「想像してみようよ」という彼の誘いや呼びかけに応えて、この世界を今とは違った風に見てみる、違う世界を思い描いてみるというのは、新しく世界を作りなおすということにつながります。
 でも、彼の曲でもっと好きなのは、「パワー・トゥー・ザ・ピープル」つまり「人々に力を」とか、「ギブ・ピース・ア・チャンス」つまり「平和にチャンスを」とかいった曲です。元気と希望を与えてくれるメッセージが直球で伝わってきます。皆さんのお父さんやお母さんも、ビートルズに熱狂したか、ちょっと遅れてビートルズを聴いた、そういう世代だと思います。
 ただし、12月8日という日は、ジョン・レノンが亡くなった日ということ以上に、もっと重要なのは、今から65年前に、日本が太平洋戦争を始めた日、ハワイの真珠湾を攻撃して対米全面戦争を始めた日です。もちろん諸君は生まれていないし、諸君のお父さんもお母さんの生まれるずっと前のことでしょう。だから、遠い過去のことで学校で習った以外、ほとんど知識も関心もないかもしれません。けれども、フィリピンのあちこちに、60年以上も前の戦争の傷跡が、実は今でもはっきりと残っています。
 フィリピンは、当時アメリカの唯一の植民地でアジアにおける一大拠点となっていましたから、そこを攻撃して占領するために
日本軍は大量の部隊を送りこんだわけです。60万人の兵士がフィリピンで戦い、そのうち約50万人、8割が死んでいます。大津市の人口はどのぐらいでしょうか。30万人くらいでしょうか。きっと大津市の全人口よりももっとたくさんの兵士が死んでいるのです。フィリピン側では、ゲリラや一般人を含め、100万人の犠牲者が出たと言われています。
 その日本軍の総司令官の山下奉文大将と、主力部隊が逃げ込んだのが、北部ルソン山地の最も険しい地域であり、山下大将が最後に立てこもったのが、このハパオ村のすぐ近くでした。立てこもった日本軍に対して、アメリカ軍は空爆やら砲撃を繰り返し、それによって破壊された棚田の土砂崩れ跡が小さな雑木林となって今も残っています。遠くから見ると、美しい棚田のなかの醜い虫食い状態といった感じです。皆さんのご両親が生まれる前の戦争の時代なんて、ずっとずっと遠い昔のことで、具体的なイメージが湧かないでしょう。でも、イフガオの人々にとって、戦争は、山下将軍が隠した軍資金といわれる山下財宝の伝説と結びついて、現在でも人々が話題にする、生々しい過去なのです。
 
ハパオ村というのは、一方では戦争や世界「遺産」という過去が生活世界に身近に存在し、他方では「グローバル森林都市」などという、誇大妄想のような未来像が語られるという点で、とっても面白い場所なのです。

2.それはピナトゥボ山の大噴火(1991)から始まった
 
今日お話するイフガオの村の植林運動と、それに対する丹波のNGOの国際協力の両方に、実は私自身が深く関わっています。ですから、文化人類学の方法論としての参与観察が、単に村に住み込んで村人と一緒に暮らしながら調査をするということ以上になっています。文字通り、彼らの運動に巻き込まれ、積極的に参与・参加して、ある意味では内側から調査しています。研究者であるというよりも、運動の同伴者、サポーターで、なおかつ同行レポーターといった方が適切でしょう。
 そもそもの始まりは、1991年にさかのぼります。皆さんが小学校に入ったかどうかくらいの頃でしょうか、1991年6月に20世紀最大の噴火が、フィリピン・ルソン島西部にあるピナトゥボ山で起こりました。その大爆発によって、山麓の一帯は厚い砂に埋まってしまいました。同じころ、ピナトゥボから10日ほど後に日本の雲仙普賢岳も爆発し、火砕流によって30人くらいが焼死されました。ピナトゥボの噴火は、その普賢岳のおよそ600倍の規模でした。上空高くに舞い上がった灰は、地球を覆って太陽光線をさえぎり、その年の地球の温度が平均で1度下がったそうです。
写真 2 ピナトゥボ山の大噴火、1991年6月
写真 3 焼畑の横の差し掛け小屋で休む夫婦、1978年
 私は、1970年代の末に、ピナトゥボ山の麓にあるアエタ族と呼ばれる人々の集落に20ヶ月ほど住み込み、彼らの社会・文化・宗教についてのフィールドワークをしました。アエタは、ネグリート系の人々で、ちょうどアフリカのサン(ブッシュマン)と呼ばれる人たちと外見がそっくりです。男でも身長が平均で150センチほどと低く、膚は暗褐色、髪はチリチリの縮毛です。彼らは、なるべく外界と接触せずに、焼畑でイモを栽培して主食とし、弓矢で狩猟したり川で魚を取ったり山菜を集めたりして副食としていました。
 私は、一間きりのほんとに小さな家を借り、自給自足のような暮らしをしました。といっても町で米や調味料や缶詰など、必要最低限の食糧と日用雑貨を買って持ち込み、副食は村人からイモや山菜や川魚をもらったり、買ったり、物々交換をしたりして手に入れました。電気もガスも水道もないので、泉で水を汲み、炉で薪を燃やして簡単な料理をしました。これが私の住んだ村で、これが伝統的な村です。写真がはっきり見れるように、電気を消していただいたほうがいいかな。メモを取るような難しい話はしませんので、写真を見ながら、イメージ理解を膨らませていただきたいと思います。
写真 4 1977~79年に20ヶ月暮らしたカキリガン村、1977年
写真 5 ターラウ村とピナトゥボ山、1979年
 70年代当時のピナトゥボ一帯は、外部(一般的なフィリピン人)とはなるべく接触や交流せず、自分たちの自律した世界のなかでアエタの人々が、本当に素朴で質素な暮らしを営んでいました。しかし、1991年の大噴火のために、山麓一帯の自然環境は激変しました。私が暮らしたカキリガン村は、ピナトゥボ山頂から十数キロほど離れているために、噴火時に積もった砂や灰は60センチか70センチくらいでした。しかし、その後、毎年の雨期の大雨のたびに山の斜面に積もった灰・砂が押し流されてきて、いまでは100メートル以上の厚さの砂に埋もれてしまっています。かつての暮らしを偲ばせるものは何ひとつ残っていません。
 ピナトゥボ山麓の一帯には3万人ほどのアエタが、小さな集落に分散して暮らしていたのですが、それらの集落のほとんどは火山灰に埋もれてしまいました。ピナトゥボ山頂に近い集落ほど、それだけ高い標高に位置しており、伝統的な暮らしを守る人々が住んでいました。そうした人たち、つまり外界との接触をなるべく避けて固有の文化を維持していた人たちが、最も深刻な被害を受けました。山頂=噴火口に近いほど、大量の灰・砂が降りそそいだからです。山頂から数キロの集落では、1メートル以上の灰・砂に埋もれました。事前の避難勧告や説得に応じなかった100人あまりの人たちは、洞窟に逃げ込んで焼死されました。

 これは、ピナトゥボ山のずっと下流の20キロほどのところにできた再定住地です。これは、私が住み込んだ村から7,8キロほど下流の場所ですが、噴火の砂礫で川がせき止められて大きな湖ができました。この湖底には4つの村が沈んでいます。
写真 6 バキラン再定住地からピナトゥボ方面を望む、1991年
写真 7 かつてアグラオ村があったあたりの湖面を進むバンカ、1991年
 ピナトウボ山麓の高域でも低域でも、集落はほとんどすべて壊滅的な被害を受けたために、アエタの人々は全員、被災者のために設置されたテント村に緊急避難しました。そして半年から1年ほど後には、政府が新しく建設した再定住地に移り住み、食糧援助に頼って暮らしました。いちおう、再定住地には各家族に小さな畑が用意されたのですが、石ころだらけで乾燥していて、とても農業だけで生きてゆけませんでした。それで、一部のアエタは建設現場で働いたり、いろいろな仕事をしました。
 カキリガン村の人たちは、テント村での生活を半年ほど送った後、ピナトゥボから20キロほど離れた国有地のなかに自分たちで新たな再定住地(カナイナヤン)を探しだし、そこに自力で新しい村を建設し始めました。自力といっても、そもそもカキリガン村は、1970年代の半ばにキリスト教系のNGO「少数民族開発財団」(EFMD)が新しく建設した村で、移動焼畑農耕をしているアエタたちに、定住して農業をするように勧め、それを支援するために作られた村でした。村を建設し、農地を造成し、山を下りて定着したアエタにはカラバオ(水牛)を配布して、各種の開発プロジェクトを実施していました。
 プロジェクトは、初めの数年は村に住み込んでいるディレクターや農業指導員らNGOのスタッフが中心になって、進められました。しかし、1980年代の初頭には、村に定着したアエタたちの住民団体である「アエタ開発協会」が結成され、それ以後は、開発財団とアエタ開発教会とが両輪となって、プロジェクトが立案、計画、実施されるようになりました。主な資金は、HEKSというドイツの援助団体から一貫して提供されました

 また、噴火の数年前からは、そのNGOには、日本の海外青年協力隊の隊員が農業や、畜産、コミュニティ開発などの分野で入り始めていました。噴火時には、それぞれ畜産と保健衛生を専門とする2人の隊員が配属されていました。したがって、噴火時の緊急避難、噴火後の災害復興、新しいカナイナヤン村の建設などには、アエタ自身と、NGOのスタッフと、日本人の協力隊員が三者三様の尽力をしました。


3.葛を用いた町おこし
 
さて、ここから、いよいよ本題に入ってゆきます。ピナトゥボ山の噴火で荒廃した山麓に葛を植えて緑化を進め、その葉が茂って表土を覆った後に各種の苗木を植林して森を回復しよう、そうしてカナイナヤンやその他の再定住地にいるアエタたちが、再びピナトゥボに帰れるように支援しようというプロジェクトの話です。それを日本から推進したNGOが、兵庫県の氷上郡山南町にあります。山南町は、先日、脱線事故があった福知山線の特急に乗って、大阪から篠山口を通って谷川まで、1時間ほどの所にある山間の小さな町です。そこでの、逆転の発想による町おこしの試みから、小さなNGOである「国際葛グリーン作戦山南」(IKGS)が生まれました。
 山南町は薬草栽培の長い歴史を持つ土地だそうで、町では「漢方の里づくり」を地域振興のひとつの柱としてきました。それに関連して1992年6月、ピナトゥボ噴火のちょうど1年後に、中央公民館の主催で「ふるさとを知る科学講演会」が開かれました。神戸大学農学部の津川兵衛教授をお招きして「わが町の葛を活かそう」と題する講演をしていただきました。その内容は、薬草の一種でありながら繁殖力の強さのために、町の主産業である林業では「厄介者・嫌われ者」となっている葛を、どうやったら上手に利用できるか、活用できるかについてでした。その講演会が契機となり、町の公民館の生涯学習推進委員を中心にして、葛の蔓を利用して生け花用の篭などの工芸品をつくる「葛の蔓工芸品研究会」が発足しました。順調に発展して現在に至るまで活動を続けているそうです。
 また、葛は生命力・繁殖力がとても強く、乾燥地の緑化に有効であるから、ピナトゥボ山麓一帯の火山灰の荒地を緑化再生するのに最適でしょうと津川教授から教えられました。それで、山南町の葛の種を採取して、ピナトゥボに送ろうという運動が生まれたというわけです。土壌の安定・回復と、地表を覆って砂塵の舞い上がりを防いだり、直射日光で地面が焼かれるのを防ぐために、まず荒地に強い葛を植え、それが育って何年かしたら植林をしようとするプロジェクトです。
 それで公民館の委員の人たちが中心となって「田舎にいながら誰にでも出来る国際貢献」として葛の種の採取キャンペーンを展開し、町内の小・中・高校
の生徒たちや老人会から全面的な協力を得て、大量の種を採取しました。1993年12月には「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)」という名称のNGOを発足させ、ピナトゥボでの植林・緑化活動を本格的に開始しました。葛の種の採取は冬のあいだ、霜の降りた原野や雪の残る山野に出て行なうもので、楽な作業ではないのだそうです。けれど、自分たちの活動がピナトゥボの大噴火で荒廃した土地の植林に直接に役に立つことなので、ボランティアの士気は高かったといいます。
 老人会のメンバーは、「老人になって世話になるばかりで、もう人のお役に立てないと思っていたのに、このくらいのことで、それも国際的にお役に立てるのなら喜んで協力します」と積極的に採取に参加し、また葛の莢から種を取り出す方法や、乾燥保存の方法などの技術や知識を子供たちに教えたそうです。また、1999年からは毎年の春休みや夏休みに、篠山鳳鳴高校インターアクト部の生徒10名から20名ほどが、ピナトゥボを訪れて数日の滞在をして、植林作業に協力するワーク・キャンプを行なっています。
 山南町で集めた葛の種をフィリピン側で受け取り、苗床を作って発芽させ、ビニール袋の植木ポットに移し替えて苗を育て、さらには荒地に植える仕事や、高校生のワーク・キャンプのお世話は、富田一也さんが全面的に引き受けました。富田さんは、噴火直後にアエタ開発協会の支援のため、海外青年協力隊の農業専門員として「少数民族開発財団」の後身である「アエタ開発協会」派遣されていました。2年の任期を1年延長して計3年活動した後、一度日本に戻ってから、今度はIKGSの現地駐在スタッフとして再びピナトゥボに派遣されました。

4.ピナトゥボからイフガオへ
 
1991年6月にピナトゥボ山が大噴火したとき、私自身は、たまたま4月から1年間、フィリピンに留学していました。首都マニラの大衆文化と政治意識・運動の関係について調査するためでした。音楽や美術や演劇などの文化活動をしている人たちが、どのような政治意識を持ち、どのようなメッセージを発しているのか、それを聴いたり見たり楽しんだりする人たちが、そうした大衆文化に接し楽しむことをとおして、アメリカや日本やフィリピン政府について、あるいは、この世界や政治のあり方について、どのような感覚や認識を共有しているのだろうか、ということにとても興味がありました。
 ジーンズにTシャツにスニーカー姿で、コーラを飲み、アメリカン・ポップス
やハリウッド映画を楽しんでいるマニラの人たちが、私と似ていて同じような好みや趣味や感性を持っているのは確かなんだけれど、でもどこか微妙に違う、その似ているところと違うところについて、もう少し詳しく、文化と政治が重なる部分、とりわけ社会の変革運動が起きている現場でしっかり見て考えてみたいな、という計画をもってマニラでの生活を始めたわけです。
 ちょうど、そんなときにピナトゥボ山が噴火して、そうした調査をやっている場合ではない。かつてピナトゥボでフィールドワークをしたときに、大変お世話になったアエタの友だちが、生活の基盤が完全に壊れてしまったために大変な目にあっている。だから、何はさておき、友だちを助けなくては、と思ったのです。それでアエタ被災者の緊急救援を行なう幾つかのNGOと一緒に活動するようになり、1,2年で非常事態が何とか収まってからは、主に山南町のIKGSと富田さんと、ずっと一緒に活動するようになった次第です。アエタの被災と苦難と復興の歩みと、それを支援するNGOの活動、そして私自身の関与については、一冊の本にまとめましたから、興味のある方はどうかそれを読んでください(清水 2003)。
写真 8 バタッド集落の棚田、2001年
 ピナトゥボの噴火から数年が過ぎ、アエタ被災者たちの生活再建が何とか軌道に乗ってきた頃、良かったなと安心するとともに、毎年のように現地を訪れ、ずっとピナトゥボだけでしたから、正直に言って少々疲れた、飽きたという気分に
なりました。それで、たまたま友人を通して知った、北部ルソンの山岳地帯に位置するイフガオ州のハパオ村での、植林・環境保全・棚田修復の運動に興味を持ち、1997年に現地に出かけてみました。運動の現場を見て、村人たちの話を聞き、それがドキドキするほど面白くて、ちゃんとした調査・研究をしてみたいなと思いました。
 もともとイフガオは文化的にもとても魅力的なところで、すでに20世紀の初頭以来、フィリピンに70か80ほどあると言われる言語・文化集団(少数
民族)のなかで、もっとも多くの研究が蓄積されてきました。フドフドと呼ばれる長編叙事詩や創生神話・英雄神話をもち、洗練された儀礼を行い、欧米の研究者やマニラの学者・ジャーナリストにとって、エキゾチックで魅力的だったというわけです。とりわけ、天国に至る階段と言われるような棚田が有名です。イフガオ州にはイフガオと呼ばれる先住民が15万人ほど住んでおり、どこの村でも、棚田での稲作と焼畑でのイモや野菜の栽培を主たる生業としています。最近では、棚田の観光が盛んになってきています。
 イフガオ州のどこの村に行っても周囲の山腹斜面には棚田が作られているのですが、そのなかでも壮麗な景観を呈する数ヶ所が、「リビング・カルチュラル・ヘリテージ(Living Cultural Heritage)」として、1995年にユネスコの世界遺産に指定されました。生きている文化遺産というのでしょうか、イフガオとはそういうところです。フィリピンの最高額紙幣である千ペソ札の裏には、このイフガオの見事な棚田が描かれています。イフガオの棚田こそが、フィリピンの誇る名所旧跡、国の宝や誇りとなっているのです。

―危機に直面している棚田―
 
ところがその棚田が、現在はさまざまな問題を抱えていて、耕作が困難になったり、放棄されてしまったりしています。その理由は幾つも挙げることができ、それらが複合的に作用しています。たとえば10年ほど前にエルニーニョと呼ばれる世界的な異常気象の影響のために、イフガオではほとんど雨が降らず、水不足となって、棚田に大きなひび割れが起きました。ずっと遅れて雨期が始まって雨が降り出したら、今度は大雨となって棚田のひび割れに雨がしみこみ、棚田を支える石壁が崩れたりするなどの大きな被害が出ました。さらにはその後に大ミミズが大発生して、棚田に穴をあけて水漏れを引き起こすようになりました(大澤 2006)。そうした棚田を修復するのは大変なので、そのまま耕作を諦めて放棄したり、野菜作りに変わったりしています。
 
既にそれ以前から、棚田の上に広がる森の木々を伐採したために、土砂崩れが起こって棚田や灌漑用水路を埋めてしまったりしています。あるいは、水源涵養林となっているような山々の森を焼畑のために伐採したり、木彫り細工の原材木や家の建築用材として伐採してきた結果、灌漑用水の水量が減ってきています。棚田自体の状態が悪くなってきている上に、棚田耕作で食べてゆこうという若者もまた減ってきています。若者たちの多くは、できたら町や都会に出て働きたいと願っています。日本の山村・過疎地と同様に、農業の高齢化と後継者不足が進行しています。
 
棚田は急な山腹に作られているので、トラクターを入れることはできませんし、平地の農民のようにカラバオ(水牛)を使うこともありません。そこでの作業はすべてスコップを使うだけの人力でなされます。斜面の下の方の田は1枚がそれぞれ広いですが、段々の上にゆくにつれて狭くなり、最上段の棚田では幅が1~2メートルしかなく、まるで斜面に巻かれた帯のようです。垂直に20~30段ある棚田を上り下りしながら、手作業で田を耕し稲を育てるというのは、本当に重労働で、若者たちが逃げ出したくなるのも分かる気がします。
 
せっかく世界遺産になったのに、その棚田を維持し、それにもとづく伝統的な暮らしを続けてゆくことが困難になってきているのです。それでフィリピン政府やイフガオ州政府あるいは幾つかのNGOなどが、世界遺産となって注目されたことをきっかけとして、棚田を保全するためのプロジェクトを幾つも立案し実施しています。けれども、外からの援助は、用水路や棚田への道を舗装したりするインフラ整備が中心で、しかも資金が限られているために、必ずしも有効な対処策とはなっていません。それに何よりも大切で必要なのは、イフガオの人々自身の、自ら棚田を守って暮らしてゆこうとする意欲や希望なのです。

5.過去と未来をつなぐ植林運動
 
ハパオ村は、その棚田が世界遺産に指定されているとともに、フィリピン土産として有名な木彫り工芸が盛んで、それが貴重な現金収入の手段となっています。副業として木彫りの仕事をしている世帯は100以上、まだ結婚もしていないし世帯も持っていない若者まで入れれば200人以上が木彫りをしています。けれどもその木彫りもまた、棚田と同じように危機に直面しています。原因は同じで、森がだんだん消えてゆき、木彫の原材木に適している太くて固い樹幹を持つ木々を手に入れることが難しくなってきているのです。等身大の仏陀やアメリカ・インディアン、その他、何であれ、大きな木彫は、イサベラ州などに出かけていって何ヶ月か森でキャンプをしながら製作するようになっています。
写真 9 木彫りをする男たち
 棚田と木彫りはハパオ村の生業の基盤であり、自慢でもあるものの存続が危いことを危惧して、まずは山に木を植え、森を造ろうという運動を手弁当で始めたオジサンがいます。私は、たまたま友人を介してその方のことを知り、1997年の春休みにバギオ市で初めてお会いして話を聞き、それから毎年の休みごとにハパオ村を訪れ、その家に泊めてもらい、(家といっても伝統的なイフガオ様式の一間きりの家屋ですが、)ほとんど毎日、彼と行動をともにしながら、その植林運動について調査を続けています。
 
彼の名前は、レイナルド・ロペス・ナウヤックさんと言います。村人が皆、マン・ロペス(ロペスおじさん)と呼んでいるので、私もそう呼んでいます。彼は、1939年にハパオ村で生まれ育ち、小学校を出てからはバナウエ町の親戚の家に下宿しながら高校に通い(フィリピンでは、6年間の小学校の後、4年間のハイスクール、4年間の大学という学制となっています)、十代の終わり、1950年代の末にバギオ市に出てきて、木彫り職人として働き始めました。最初は工房の雇われ職人でしたが、結婚をしてから独立し、自分で小さな工房を経営するとともに、木彫りの仲買・卸売りなども始めました。また彼が住んでいたのは、イフガオを中心に北部ルソンの先住民の移民が多く集住しているアシン・ロード地区でしたが、そこの区長を1982年から97年まで3期15年も務めました。地区では非常に人望のある有名人です。
 
彼に限らず、バギオに出てきた先住民の人たちは、都会の生活にしっかり適応して暮らすのですが、しかし同時に出身の村に残る親戚たちと非常に密接な関係を保ち続けています。ロペスさんも、木彫りビジネスの関係もあって、しばしばハパオ村に帰ったりして関係を続けていましたから、そこの棚田耕作や木彫工芸が危うくなりそうだということをよく分かっていました。何とかしなければと思い、1990年代の初め頃から、アシン地区に住む木彫り職人やハパオ村の村人たちに植林を呼びかけ、自身も木彫りに最適な在来樹種の種を集めて苗床で発芽させ、それをハパオ村に持っていって自身で植林したり、村人に分けて植林を勧めたりし始めました。
写真 10 イフガオの正装をして苗をもつロペスさん、2002年3月
写真 11 苗床のロペスさん、2002年3月
 
1990年代の半ばになって、4人の子供が皆、結婚したり独立したりして子育てに一段落したこと、そして区長を引退したことを契機に、生活の拠点をバギオ市からハパオ村に移し、植林活動を中心に生活をすることにしました。1997年に私が初めてお会いしたのは、ハパオ村に戻って1年目くらいのときでした。奥さんは、今でもバギオの家に住んで、木彫りの仲買・卸売り販売などを細々と続け、ロペスさんの生活と活動を支えています。
 
ロペスさんは、ハパオ村に戻り熱心に植林を進めるに至った理由として、次のように語っています。ハパオ村は、周囲を棚田に囲まれ、さらにそれらを森が優しく守ってくれて、本当に美しく心が落ちつける場所なのだ。だから自分は故郷に戻ってきた。森のおかげで、ハパオの村では棚田耕作や木彫工芸をすることができた。けれど残念なことに、森が失われ、灌漑用水が枯渇し始め、さらには木彫に適した樹木が急激に減ってきている。このままでは、棚田耕作はいっそう困難になり、さらには木彫品の製作や販売で生活しているハパオ村やアシン・ロード地区の人々が近い将来に職を失いかねない。今まで、自分は木彫のために森の木を切り一方的に奪うだけだったが、今は母なる自然に感謝し、また傷付けたことを反省し傷を癒すためにも、ぜひとも植林を続けなければならないのだ。

―意味を付与する実践―
 
私にとってとても興味深いのは、植林の必要を村人に説得したり、政府や国内外のNGOなどに支援を要請したりするときに、ロペスさんが植林を意味づける方法です。たとえば、ハパオ村の一帯は、太平洋戦争の末期、敗走を重ねた日本軍の司令部と主力部隊が最後に立てこもり、最終的に山下将軍が降伏を受け入れた場所です。ロペスさんによれば、ここでの最後の決戦が避けられ、無用の死者を出さずにすんだのは、ハパオ村一帯の心静まる平穏な風景と森の霊気とが、荒ぶる将軍の心を和らげたおかげなのだそうです。そして彼の言葉を借りれば、「それゆえ平和がこの地に降臨した」のです。
 
ただしパパオ村に敗走してきた日本兵を逃れて、1945年の6月頃から3ヶ月ほど、村人たちは山中での避難生活を余儀なくされ、その間、飢餓と病気によって多くの死者を出しました。ロペスさんの2人のきょうだいもその時に亡くなり、戦後すぐに母親と妹も栄養失調と病気で失っています。父親と彼ひとりだけが運良く生き残りました。彼が今まで生きてこられたのは、何か意味ある仕事をなすべきであると、神様が為した業であるに違いない、そして植林運動こそは自分に与えられた使命であると説明しています。
 
当時、日本軍に圧力を加えるためにキアンガンやバナウエ方面から山を越えて撃ちこんできたアメリカ軍の砲撃や、空からの爆撃によって、棚田が破壊されて崩落した跡が、パットパット集落の下方斜面に広がる棚田の何ヶ所かに残されています。彼自身の額のまん中にも、日本兵を恐れて山中に避難する途中、近くに落ちた爆弾で砕けた岩石の小片が当たってできた傷跡が浅い三日月の形をして残っています。ハパオ村の景観のなかに穿たれた、そして彼自身の身体の上に刻印された戦争の傷痕が消えずにいるのと同様に、困窮と苦難と悲しみの記憶をロペスさんは決して忘れ去ることはできないと言います。しかし、酒に酔って戦争中の思い出を色々と語ってくれるとき、ロペスさんは、私を、日本人を、アメリカ人を、責めたりることはありません。辛いけれども終わったことであり、終わったことはどうしようもないと言います。
 
けれども、戦後の平和が降臨する直前の産みの苦しみとして、日本軍とアメリカ軍が、村人の生命と財産に甚大な被害を与えたことは忘れないでほしい。そしてそのことに対して誠実に責任を感じるならば、またハパオの被害を代償として戦争が終わり、ここで平和が得られたことを理解するならば、ハパオ村の子どもたちの未来へとつながる植林に積極的に協力してほしいと熱く語るのです。
 
言いかえれば、日本軍とアメリカ軍が過去に引き起こした災禍を忘れ去ることはできないし、日本人とアメリカ人の双方に歴史を想起し過去と向き合うことを求めているのです。しかしそれは、戦後に生まれた私たちの責任や罪悪を糾弾するのでは決してなく、すでに戦争によって結び付けられてしまった日本とアメリカとイフガオという三つの世界を、未来に向けて再び新しく結び付けなおすための契機にしようとするものです。
 
だからロペスさんは、植林活動のために作った住民組織(Peoples Organization)を、「イフガオ・グローバル森林都市運動」と名づけたのです。グローバルというのは、この地が日本とアメリカの総力戦の最終焦点となった土地であり、戦争と平和の劇的な転換点であり、新しい時代の誕生の地であり、世界性の凝縮そのものだからというのです。しかも現在、バナウエまでは世界中から外国人観光客がくるのだから、バナウエよりも美しいハパオの棚田とピヌゴの森の景観を世界中の人々に見てもらいたい、村に泊まって心ゆくまで美しい風景を堪能してもらいたい。観光客は現金を落とし雇用を創出してくれるだけでなく、イフガオであることの素晴らしさを村人たちが再認識し、誇りに思う契機となってくれると言います。彼は、戦争の過去も、観光で開かれるべき未来も、日本やアメリカやヨーロッパの世界と直接に繋がっているのだから、ここはすでにグローバルなのだと力説するのです。そのことの象徴として、村から少し離れた禿山を「グローバル・森林平和公園」として、植林整備するプランを暖めています。
 
さらには、山奥の村をシティーと呼ぶのは、林立するビルが都市空間を埋め尽くすように、ハパオ村の一帯を樹木で埋め尽くしたい、しかも閉ざされた空間ではなく、外国人の観光客が気軽に行き来できるような開かれた空間にしてゆきたい、という希望の表明なのだそうです。林立する樹木をビルの比喩で捉え、樹木に覆われた村を都市に喩えることは、都市化という村人にとって好ましいイメージを逆手にとって、植林運動がもたらす未来像を清新で前向きな気分とともに伝える効果を持っています。また、植林による森の再生は棚田の保全につながり、それは何世代にもわたって棚田を築き耕し続けた祖先と自分たちが今も直接に結ばれてあることの証しとなるのだと説明しながら、木彫職人ではない村人にも運動への参加を強く勧めています。

6.日本からの支援
 1997年に初めてハパオ村に入って住み込み調査を始めた翌年、2回目の調査のときだったと思います。私が再び戻ってきて、相変わらず熱心に聞き取り調査を続けているので、ロペスさんは、私の本気や熱意を感じたのでしょう。ある日の夕食後にお酒を飲みながら話をしていたとき、ロペスさんは、調査を一所懸命にやるのも結構だけれども、それは私自身のための仕事だろうから、それとは別に自分たちの一員かパートナーとなって、この運動の発展に手を貸してほしい、自分たちを支援してくれるNGOを、日本で見つけてほしい。そのためにも、お前を「グローバル」の日本駐在員に任命しよう、ちゃんと責務を自覚して頑張ってほしい、と言われました。
 そこで、先に紹介した「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)」の富田さんに連絡を取ってお願いをした次第です。富田さんご自身も、ピナトゥボでの活動を10年で一区切りにして、活動の力点を他の場所に移そうかなと考えていたところでした。ぴったりとタイミングが合って、富田さんはさっそく自らハパオ村に足を運び、さらには「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)」の理事の方々3人も日本から視察に来られて納得し、全面的な協力を約束してくれました。
写真 12 ロノの密生する斜面を伐採する(IKGS提供)
写真 13 棚田への地崩れを防ぐための植林(IKGS提供)
 
実際に富田さんらが資金を獲得して、日本からの支援によるプロジェクトが始まったのは2001年ですから、今年でちょうど丸5年間ほど活動を続けてきたことになります。活動の基本的なスタイルは、富田さんを中心にして「国際葛グリーン作戦山南(IKGS)」の側が植林の資金と苗木と技術・知識(専門家セミナー)を提供し、「グローバル」の側が、実際の植林作業をするという分担になっています。ただし、「グローバル」のメンバーであっても、作業に参加したら1日で150ペソの日当が支給されます。活動成果を簡単にまとめてみますと、今までに日本の7つの基金や財団から総額で3,500万円ほどの資金を得て、290ヘクタールの山斜面に27万5千本の苗を植林しています。
 
ただ、これにはちょっとしたからくりがあって、実際に植えた苗木の数はこのくらいですけれども、その後の維持管理があまり良くないので、半分近くは枯れてしまっているようです。本当は、植林後に、苗木よりもずっと早く成長して苗木に覆いかぶさり枯らしてしまう、雑草の刈り取り除去をしっかりやる必要があるのですが、それが不十分なので活着率が低くなってしまうのです。しかし、それでも半分以上は生き残っていて、かなりうまくいっています。植林というのは本当に重労働だし、大変な作業です。現場は遠くから見るかぎりは優しい緑の草のカバーといった感じなのですが、近づいてみると、ススキに似たロノという2メートルを越すような強靭な雑草が茂っています。それを伐採し、斜面に段差を造り、そこにひとつひとつ穴を掘って植えてゆくのです。苗を運びあげるのだって、なかなか大変です。
 今までの5年間に資金援助をしてくれた具体的な基金・財団の名称は、国際ボランティア貯金、イオン環境財団、環境事業団・地球環境基金、国土緑化推進機構、イオン環境財団、国際協力機構(JICA)などで、大手あるいは有名なものばかりです。とりわけ国際協力機構(JICA)からの支援は、「草の根協力支援型」プログラムという2002年度から新しく始まった枠組みによるもので、とても興味深いです。国際協力機構としても、今まで道路や橋やダムなどのインフラ整備の土木工事と、建物などの箱物建設を中心に国際協力を行なってきたのですけれど、緒方貞子さんが新しく総裁となって、草の根レベルのきめ細かな支援もしてゆこうということになったのでしょう。
 
そのプロジェクトの発足第1号の案件として、「フィリピン国イフガオ州フンドゥアン郡の世界遺産棚田地帯における大規模植林による持続可能なエコ・システムの構築:植林とアグロ・フォレストリー」というプロジェクトが採択され、3年間で1,000万円の資金が与えられたというわけです。具体的な活動の内容と期待される成果は、申請書によれば、1)苗床の設置、育苗技術に関する研修の実施、山腹斜面への植林を通じて荒廃森林が植林される、2)現地植林組合の設立、現地指導者の育成を通じて植林組合が自立・運営される、3)現地指導者の育成、セミナーの開催、マニュアルの作成、モデル農場の設置、を通じてアグロ・フォレストリーが実施される、となっています。
写真 14 ウサギの飼育を担当する日本人ボランティア(IKGS提供)
 それが、実際にどの程度まで達成されたのかを判断することは難しいのですけれども、私自身、その成果の評価調査を国際協力機構から正式に依頼されて夏休みに行なったことから言えば、1,000万円の予算でいろいろ頑張ったな、というのが率直な印象です。なかでも特筆すべきこと、ぜひとも紹介したいのは、このプロジェクトに、日本から3人の女子大生が、3年次4年次に大学を休学して参加したことです。彼女たちは10ヶ月あまりハパオ村に住み込み、「グローバル」の若い女性ボランティア・スタッフと一緒に村の人たちと同じような環境で合宿生活をしながら、同じ1日150ペソ(約300円)の給料で一所懸命に働きました。
 彼女たちは、高校生のときにピナトゥボでの1週間ほどのワーク・キャンプに参加し、ワークの充実感やアエタの子供たちとの交流に感激して、大学生となってからピナトゥボを再訪したりした後、イフガオまでやってきたという次第です。先ほど説明しましたように、ハパオ村の一帯は、戦争末期に大量の日本兵が逃げ込んできたために、村人たちは山の奥深くに避難して、食料不足や伝染病のために多くの犠牲者を出しました。いっぽうで戦争の記憶がまだ残っているのに対して、戦後にハパオ村まで訪れる日本人は遺骨収集や山下財宝探しを目的とする人以外は、ほんとうに限られていました。だから日本や日本人のイメージは限られていて、しかも必ずしも良いものではありませんでした。
 
けれど日本人の若い女性3人が村に住み込んで、植林と環境保全と生活向上のためにいろいろと工夫をして手伝ってくれた。実際にどれほど役に立ったのかは別として、無償の奉仕、友愛というのでしょうか、彼女たちを見ていたら、そうした気持ちが伝わってくる、それで、日本人が大好きになった、日本人のイメージがすごく良くなったと村人たちは言います。ほんとうに等身大の若い女性、生身の、優しい、まっとうな日本人と身近に接し交流できたというのが、村人にとってはとてもうれしくて、好感をもってくれたようです。
 日本からは、3人のボランティアのほかに、NGOの理事や関係者らも何度かイフガオを親善訪問しています。また逆に、ロペスさんやイフガオの若者、さらには前州知事のバギラットさんも、山南町に招かれて来日し、町民や中学生・高校生との交流会を持ちました。ハパオ村と山南町とが、マニラや大阪をほとんど素通りして人の行き来で結びついているのです。
写真 15 スービック町の小学校で植林の出前授業をした後で(IKGS提供)
写真 16 山南町の親善交流会で踊りを披露するメンバー(IKGS提供)
 ちょっと写真で紹介しますと、3人の女子学生のうちのこの人は、ウサギの飼育プロジェクトの責任者、というか彼女が立案して推進しています。ウサギを育てて、その食肉と毛皮を売って現金収入を上げようというプロジェクトです。最初の半年は、自分のところでお手本として飼育しながら、子供を増やしてそれを関心のある村人に分配し、各家で育ててもらっています。
 
この写真のこの彼女は、環境教育を担当していて、ロペスさんと一緒に、小学校や中学校に出かけていって、森の大切さと植林の必要性を訴える出前授業をしています。授業が終わったら、生徒みんなで1本ずつ記念植樹をしています。日本人の女子大生3人が、イフガオの伝統的なスカートを着て、イフガオの子どもたちに木を植えようなどという運動をしているのですから、ちょっと変だけど面白がられて好評な活動のようです。一番右にいる人がロペスさんです。一番真ん中にいるのが前イフガオ州知事のバギラットさんですが、まだ40歳にならないくらいの若い人です。残念ながらこの前の選挙で落ちてしまいました。今は知事ではなくて、「イフガオの棚田を守る運動」(Save the Ifugao Terraces Movement)というNGOのディレクターをしています。
 この写真は逆に、イフガオから代表のメンバーが日本の山南町にやって来て、イフガオの伝統的な褌姿で踊りを披露しているところです。

7. 最後にひとこと
 
まだまだ、いろいろとお話したいことはあるのですけど、時間を大幅に超過しています。急いで、最後に簡単なまとめをしたいと思います。
 
ここで紹介した3人の日本人のボランティアは、高校のときに、ピナトゥボでの植林ワーク・キャンプに参加し、それがきっかけとなって国際協力に関心をもちました。その関心が、大学での開発・国際協力の勉強や、イフガオでの住み込みボランティアへと直接に結びついています。彼女たちは、皆さんと同じくらいの年齢で、20歳を過ぎたくらいです。もちろん、彼女たち自身も、ご両親も、今から60年以上も前の戦争のこと、ましてや日本軍の主力部隊が、最後にハパオ村の周辺に結集したことなど知りませんでした。
 
けれども、ハパオ村に住んでいるうちに、ロペスさんや、その他のおじいさん、おばあさんから戦争のときの話を聞き、幾つもの悲しい出来事が起こった場所を実際に見たり行ったりすることで、戦争がけっして遠い過去のものではないことを実感しています。そして初めは、好奇心や善意や親善の気持ちから始まった自分たちのボランティア活動が、決して一方的な善意や好意の施しなどではないことを自覚するようになっています。もともと、彼女たちは、そんな高い所から見下ろすような視点など、まったく持ってなくて謙虚だし素直だし、自分たちもまた村人に教えられ、親切にされ、助けられ、支えられていることを深く理解し感謝しています。ただ、それに加えて、戦争の歴史を知ることで、今やっている自分たちのボランティア行為が、日本とフィリピンの、過去と現在と未来とに、深く結びついていることをしっかりと自覚するようになっているのです。
 
ロペスおじさんやハパオ村の人たちと、若い日本人ボランティアのあいだで、心の絆と交流が生まれ、想いとメッセージが伝わりあい、歴史をふまえて未来を開く小さな試みが進められているのは、ちょっと良い話だと思いませんか?私は、とても素晴らしいことだと思います。そして、そうした日本人ボランティアを生み出した、山南長の小さなNGO(IKGS)の10年を超える国際協力の活動が、ごく普通の草の根の人たちによって進められてきたこと、そして東京・大阪やマニラを経由せずに直接に山奥同士で深く結びついてしまうということは、ほんとにスゴイなぁと、自分で話しながらあらためて感心しています。

(『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第8号, 2006 pp.356-371。)


―参考文献―

  • Barton,R.F., 1969[1919], Ifugao Law, Berkeley: University of California Press.
  • Conklin, Harold, 1980, Ethnographic Atlas of Ifugao: A Study of Environment, Culture, and Society in Northern Luzon, New Haven: Yale University Pres.
  • Dulawan, Lourdes, 2001, Ifugao: Culture and History, Manila: National Commision for Culture and Arts.
  • Dumia, Mariano, 1979, The Ifugao World, Quezon City: New Day Publishers.
  • Hilhorst, Dorothea, 2003, The Real World of NGOs: Discourses, Diversity and Development, Quezon City: Ateneo de Manila University.
  • Kwiatkowski, Lynn, 1998, Struggling with Development: The Politics of Hunger and Gender in the Philippines, Boulder, Westview Press.
  • IKGS緑化協会2005『イフガオに森を』IKGS緑化協会。
  • 清水展1998「ローカルでグローバルに生きること:イフガオの村の植林・環境保全運動」『Crssover』No.8。
  • ――― 2002 「イフガオ」・ハパオ村における森林・環境保全・文化復興の運動」清水展(編)『環境保全の方途:フィリピンにおけるNGOとコミュニティの役割・可能性』日本学術振興会・未来開拓学術研究推進事業プロジェクト「フィリピンにおける大都市地域および地方部の整備、開発、保全に関する研究」第9班成果報告書。
  • 津川兵衛2001 「よみがえれ、緑のピナトゥボ」津田守・田巻松雄(編)『自然災害と国際協力:フィリピンピナトゥボ大噴火と日本』新評論(報告2終了)


* 本稿は、2005年12月8日に開催された龍谷大学国際社会文化研究所シンポジウム「国境を越えた村おこし―日本と東南アジアをつなぐ実践」で報告した草稿に、大幅な加筆修正を加えたものである。報告のタイトルは「フィリピン山村の植林運動――先住民とNGOをつなぐ草の根国際協力――」であったが、今回のまとめで現題のように変更した。